vol 20.'71フォークジャンボリー(その2)
「その1」では、加川良のサインを紹介しましたが、このフォークジャンボリーに参加するにあたり、沢山の人の音楽を聴くのはもちろんの事、「憧れのシンガーのサインを集めよう」というミーハー的なノリもありました。(何度も言うようだけど、この時高校1年生だからね。そのところ分かってくださいね(笑))
「会場でうろうろするミュージシャン」をつかまえてサインをもらおう!
野外イベントだし、道端やステージ脇で簡単に会えるだろう!そういう時にサインをもらうんだ!という魂胆です。
いいアイデァである。高校1年生にしては賢い。
しかし、何人ものミュージシャンに会うだろうし、色紙を何十枚も持ち運ぶのはタイソウだしな…
かと言って「手帳にボールペンで」というサインもショボイし…
で、私はどうしたか!そう、私はスケッチブックとマジックペンをカバンに入れて持って行ったのです。
これなら、たっぷり20人分あるし、B4版の大きさだし、持ち運びも楽だし…。
いいアイデァである。高校1年生にしては賢い。
そのスケッチブックが左の写真です。ジャーン!
…ん?! ’71フォークジャンボリーと自分で手書きしているが、FolkがFalkになっている。(ファークジャンボリー?しかも下手糞な字だ事。)
うーん、こんな簡単なスペルを間違うとは、高校1年生にしては賢くない。(失笑)
(心配になって、今Jamboreeを辞書で確かめたが、こっちは合ってました。ホッ)
さて、前回の続きですが、初日の夜、メインステージのクライマックス「岡林信康」の出番です。
ワクワクしながら、その時を待っていました。
すると、私の横におじさんが割り込んで座ってきたのです。ふと、見ると「黒田征太郎」氏である。
黒田征太郎はミュージシャンではありません。何者かというとイラストレーターなのであります。
「あのぉ、黒田さんですか?」なんて、坊主頭の少年が尋ねるものですから、びっくりされたようです。
今でこそ、その方面では世界的なイラストレーターですが、当時は新進画家でして、フォークソングや反戦活動を支援され、このような場に良く顔を出されていたように記憶しています。
そんなアンダーグラウンドな黒田さんをなぜ私が知っていたのか?話せば長くなるのですが…話さないと物語が進まないので話しましょう。つきあってください。
小・中学生の頃、私は日本車マニアであったのです。当時、日本の大衆車の種類は20〜30程度で、トヨタではカローラ、パブリカ、コロナ、日産ではサニー、ブルーバードといった程度でした。ホンダはまだ車を作っていなかったし…。
「新車発売」の新聞広告が出るたびに展示会場に行き、車を眺めては喜んでいました。その頃の少年にとっては、自動車というモノは今で言う知的ロボットのような、最新技術のカタマリみたいな素晴らしい機械だったのです。
そして、車のパンフレットが欲しいので受付でお客様アンケートを書き、もらったパンフを持ち帰っては家で読みふけっていました。
当然、「お客様アンケート」を元に、毎月のように車のセールスが家にやってきます。
母親はそのたびに「いや、まだウチは車を買い換えませんので…」と四苦八苦して断っているのを小学生の私は、障子の向こうで聞いていたものです。。。
そんな両親の苦労も省みず、日夜、車のパンフを読み、新聞広告に目を見張り…小学生の私は「大人になったら、この車を買おう。」なんて夢見ていたのでした。
ちょうどその頃(1969年7月)三菱自動車から若者向きスポーツカーとして、軽自動車ミニカ70が発売されたのです。
このミニカ70の販売促進ポスターに新進画家達の絵が採用されたのです。
そのポスターは5種類くらいあって、黒田さんの他に横尾忠則氏の絵もありました。当時はサイケデリックアートなんて呼ばれたりもしましたね。
自転車で中学校に通う順路に自動車整備工場があって、これらのポスターが貼ってました。工場の整備員のお兄ちゃんに頼みこんで全てのポスターを手に入れました。部屋いっぱいにポスターを貼って、その中で一番のお気に入りのポスターが黒田征太郎氏の作品でした。
そんな訳で、少年の分際で、生意気にも新進画家・黒田征太郎を知っていたのでした。
話が長くなりました。本題に戻りましょう。
すかさず「サインもらっていいですか?」と恐る恐るお願いしたら、快く書いてくださった。しかも☆のイラスト付きで!
この黒田さんのサインが私のスケッチブックの1ページめに書かれています。(宝物!鼻が☆なのも、すごく気に入っています。)
そして、サインを書き終わると黒田さんは、席を立ちどこかへ行かれてしまったのである。
そうこうしている内に、メインステージに岡林信康が現れた。
大観衆の大きな声援…。演奏が始まり唄が始まった。初めてナマで聴く岡林の声。少年はドキドキしながら耳を傾けていたのであった。
「自由への長い旅」が唄われている途中だったかな?又いつのまにか黒田さんが隣に座ってきて「岡林の唄、どう思う?」と訊ねてきた。
しかも、ナント、黒田さんの手にはマイクが握られているではないか!
「は、はい。心に響いてくる歌だと思います。」なんて当り障りのない応えをしたように思う。
(後日TVでドキュメントが放映され、岡林のステージの途中、黒田さんのインタビューに応えている少年の声と後姿が映し出されたのである。その坊主頭の少年は、まぎれもなく私です。。。)(こんな事書いても「あぁ、あの時の…」なんていう人が居ないのが寂しい(笑))
結局、岡林は調子がでないまま短い時間でステージを降り、このあと二度と会場には現れなかった…。
で、結局、岡林のサインはもらえなかった訳です。
しかし、この夜もらった黒田さんのサインとこの夜の黒田さんのインタビューが、少年を「フォークシンガーへの道」へと駆り立てたのでありました。。。
長編になってきました。続きは「その3」で。
おまけ
本田路津子さんのサイン。(「ほんだろつこ」ではなく、「るつこ」と読みます。)
当時、「秋でもないのに」が大ヒットになりました。
第二の森山良子なんて呼ばれましたが、いつのまにか音楽活動から遠ざかってしまわれたようです。
現在は、福岡にお住まいで、教会の賛美歌などを歌われ活動されているようです。
1971年、72年とNHK紅白歌合戦にも出場されています。
このように、当時軟弱フォークと呼ばれたシンガー達も第3回フォークジャンボリーに参加していたのです。
このようにあらゆるミュージシャンが集う事が、この第3回フォークジャンボリーに大きな波紋を投げかけ、あの事件につながっていくのであった。。。(その3にて報告します。)