vol 21.'71フォークジャンボリー(その3)
初日の夜のステージが終わり、テントに戻って寝ようとしたが寝つかれない。
岡林のステージの最中にTVインタビューを受けるとは…。少年にとっては、余りにも刺激的な1日だったのである。
今、振り返ると、30年前の8月7日という日は、私の一生を決定づける1日だったのかも知れない。
何とか火照りを冷まし寝付いた。明日は昼までイベントも無く、ゆっくり寝ていられる…。シュラフに入り眠りについた…。
しかし、その次の日8月8日がもっと大変な1日になるとは、この時知る由も無かったのである…。
その1でも書きましたが、五つの赤い風船が私のお目当てのひとつだったのですが、西岡たかしさんが見えず、結局フーセンの唄は聴けなかったのです。
左のサインは東トンさんとフーコちゃんのサインです。
五つの赤い風船解散後、この二人は結婚されています。
この時もらえなかった西岡さんのサインは、後年、京都の円山公園でもらいました。しかし、西岡さんのサイン色紙が、どうしても見つかりません。
2枚の色紙を渡すと、1枚は普通に、そしてもう1枚には色紙いっぱいに
「に」と書かれたのを覚えています。
さて、フォークジャンボリー2日めには、岡林はもう会場から居なくなっていたようです。
初日のステージ、岡林自身、違和感を感じていたのでは無いでしょうか?
’69が反戦活動の大きなうねりの年であり、それから2年、’71年は全ての社会現象が転換機を迎えた年だったような気がします。
ちょうど、私が高校に入学したこの’71年は「3無主義」と言われ、無気力・無関心・無責任の世代と言われたものです。
そんな’71年、この年のフォークジャンボリー。
楽しみにしていた8月8日の夜のメインステージは、観衆に占拠されてしまい演奏は中止になってしまったのでした。
この出来事が、フォークソング(もっと大袈裟に言うと日本音楽界)の転機になったように思います。
どういう事が起こったのか?少年ですから、今ひとつ理解できていなかったのですが、思い出してみましょう。
この夜、一部の観客がいきなりステージに駆け上がり、マイクを持って演説し始めたのです。
今ならこんな事すればすぐにひっつかまれて退去させられますが、なんとそのまま演説し始めた男に賛同してステージに駆け上がる者、反対意見を言いに駆け上がる者、いつのまにかメインステージの上は30名位の人が、上手・下手に分かれ大討論会になってしまったのです。主催スタッフも、これが音楽イベントに関するナニカの転換だと感じたのでしょう。
しかし、少年の私はただ、楽しみにしていたミュージシャンの唄が聴けないことが悲しくてたまりませんでした。
しばらく客席で討論を聞いていたのですが、彼らが言いたい事を要約すると、
・フォークソングがこのようにTVメディア(マスメディア)に乗っかかっていいのか?
・はしだのりひことクライマックスのように大ヒットした「花嫁」がこの場で歌われていいのか?
・関西フォークは反戦のための曲では無い。よって、このイベントが何を意味するのかわからない。
・(タクローなどの)プライベートな事を歌った曲は、もはやフォークソングでは無いのでは無いか?
というような各論から、総論として、
このように体制側についたイベントになったフォークジャンボリーは、もはや開催すべきモノでないのでは無いか!
なんていう結論だったように思います。
延々、「朝まで生テレビ」状態だった討論会には流石にシラケ、個人的には後味悪い状態でイベントは終わりました。
そして、フォークジャンボリーは、(又沢山のミュージシャンが一斉に集う日本の野外コンサートは)この日に終わってしまったのである。
(大阪での春一番コンサートは、いい意味で新しい文化を創造でき、続いたけど。。。こんな事珍しいです。)
しかし、こんな大人(?)の世界を経験したおかげで、その後起きる日本赤軍事件や日航機乗っ取り事件には、怖さより「あぁ、又やっとる!懲りもせず…」という冷静な目で世間を見るようになったのです。
そして、営利目的に音楽が使用されることは許されないという理論の社会主義とやらに閉口し、毛嫌いを覚えた。
誰もが「正義のために」と狭い範囲でこぶしを振りかざす時、その時点で全てが終わってしまうのである。
音楽って何なのだろう?音楽の持つチカラって何なのだろう?
少年は、この日を境に音楽と真剣に向い合い始めたのである。
それから30年、まだ答えを見つけられないままです。
ちょっと重い話でした。
それはさておき右のサインは、山本コータローさん。
岬めぐりなんて曲がこの後ヒットしましたね。
(今はもう国会議員じゃなかったっけ?)
議員さんになった時もびっくりしたなぁ。
イラストの出ッ歯がかわいい。
左のサインは「かなもりこうすけ」さん。
この人の曲好きだったんです。
今、どうしているのかな?
聴きたいなぁ!
ソロになってからのアルバムが名盤だったなぁ。
買ったはずのレコードが無くて、ネット配信でも探したけど無い。
「笑いあえば、笑いあうほど、僕達は離れていく…そんな気がする…」という詩が好きでした。
「その1」で紹介した三上寛さんのサインが右のもの。
「この次生まりゃ」と書いて「れ」が抜けてる事に気づき、「ありゃ」なんて付け足したお茶目な寛さん。
「しょんべんだらけのみずうみ」なんて言う、えげつない歌の奥に、この人の知性とやさしさを感じました。
2年ほど前、TVに出て歌っておられるのを拝見しました。
レポーターみたいな事もされていて、何とか生きておられるようで安心しています。
このフォークジャンボリーでも出演者・観客、皆が肩までかかる長髪だったのに、三上寛さんは、ただひとり「角刈り」でした。
坊主頭の私は、共感を覚えてしまいました。(笑)
又、長くなってしまった。
この日のメインステージは無くなってしまったが、実は1971年8月8日の昼間には、歴史的なステージに偶然居合わせてしまったのです。
この話も長くなりますので、「その4」にてゆっくりお話します。