vol 36.背番号42

セントラルリ-グ

中日ドラゴンズ

  ドミンゴ(投)

ヤクルトスワローズ

  ゴンザレス(投)

読売ジャイアンツ

  シコースキー(投)

阪神タイガース

  下柳剛(投)

広島カープ

  ブロック(投)

横浜ベイスターズ

   欠番

球団合併反対ストなどもあった今年のプロ野球シーズンも終わりに近づきました。

(って、今日10月13日タイガースの最終戦は終わった)

 

ま、そんなこともあってか(?)今回は背番号にまつわるお話をしたいと思います。

 

少年の頃から、もし自分がプロ野球選手だったら「背番号は何番がいいかな」なんて考えたものです。

(ちなみに私はサッカー少年で背番号8だったのですが。笑)

 

たいがいの少年は(昭和40年代の)、圧倒的に「背番号3」が憧れだったと思います。

 

そう、あの長嶋選手の背番号です。

誰も「背番号4」なんて希望しなかったです。

 

日本では「4」という数字は「死」に通じる忌番号だと言われておりまして、不吉だと思われていました。

しかし、私の小学校の先生が「4という数字は外国では不吉な番号ということはないんですよ」なんて、

今から思えば差別をなくす教育をされておりまして、ま、当時から私も4という番号には抵抗が無かったわけです。

 

抵抗が無かったばかりでなく、なんとなく私の人生において「4」という番号はラッキーナンバーにもなっています。

 

何でラッキーナンバーなのかは話が本題から外れるので語りませんが(笑)、まわりの少年たちは「4」という番号は死んでもつけたくない番号であったわけです。

ましてや「42」は「しにん」なんていうものですから、どうにも人気の無い番号であります。

 

そんな番号ですから、当然日本のプロ野球選手はつけたがらず、たいがい4で始まる背番号は外国人選手に押し付けておりまして…。

と最近まで思っていたのですが、ここ最近、一部の日本人選手が(って我がタイガースの下柳投手ですが。笑)好んでつけているのに興味をそそられたのであります。

 

 

 

そこで背番号42をつけている各球団選手(2004年シーズン)を

調べてみました。

 

まず、セリーグ。

 

右の表ですが、

すべて(横浜の欠番を除き)

投手が「42」をつけています。

 

 

 なるほど、投手に人気のある背番号かも知れない。

 

 

 

そこで、パリーグも調べてみました。

 

投手が3人いるが、内野手も3人「42」をつけている。

どうも、「投手に限って…」ということではなさそうである。

 

 しかも、日本人選手が二人もいる。

 

 

パシフィックリ-グ

西武ライオンズ

  カブレラ(内)

福岡ダイエーホークス

  ズレータ(内)

日本ハムファイターズ

  高橋憲幸(投)

千葉ロッテマリーンズ

  セラフィニ(投)

大阪近鉄バッファローズ

  Lバーンズ(内)

オリックスブルーウェーブ

  萩原淳(投)

うーん、もはや「42」という番号は「しにんにつながるから嫌だー」という

人が少なくなったんだ。

人権教育の賜物なのか?

などと唸っていると、

「誕生日が4月2日やから42つけてるって人もいるかも知れんやん」

なんて子供から言われまして、

なるほどそうかも知れないと調べてみました。

 

下柳選手は1968年5月16日生まれ。ちがうなぁ。

高橋選手は1971年2月25日生まれ。

荻原選手は1973年8月20日生まれ。

 

見事に外れました。(笑)

 

 

 

しかし、ここでへこたれてはなるまい。

一度興味を持った事は最後まで追及すべきである…。

 

あちこち調べたあげく、ついに真実があきらかになったのである!

 

 (つづく)

 

 

 

もったいぶって(つづく)なんてしないで、ちゃんと最後まで語れよ。どうせ誰も見てないんだから…。

なんて批判の声も聞こえてきそうなので、(つづき)を書きます。(笑)

 

なんと42番の背番号は、メジャーリーグに永久欠番だったのです。

 

以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』より。

 

ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson 1919年1月19日 - 1972年10月24日)はアメリカ合衆国の元プロ野球選手。黒人初のメジャーリーガーとなり、有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。本名はジャック・ルーズベルト・ロビンソン。右投げ右打ち。二塁手。

(なんと永久欠番42番の選手は投手ではなく、内野手だったんですね。)

ジョージア州出身。大学(カリフォルニア州のパサディナ短期大学(現パサディナ市立大学)と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA))でアメリカンフットボールや野球などで活躍し、中退して軍隊に入る。退役後の1945年にニグロ・リーグのカンザスシティ・モナークスに入団。

その年の末に当時のドジャースの会長ブランチ・リッキーに誘われる。黒人がメジャーリーグに入ることで受けるであろう反感と差別にロビンソンは躊躇するが、リッキーの熱心な誘いにより、翌年からドジャースの傘下の3A・モントリオール・ロイヤルズに入団、その翌年にはドジャースに昇格した。

(ドジャースって、西海岸の有名球団ですよね。)

1947年4月15日、ロビンソンがデビューする。予想通り、白人たちからの反発は激しくロビンソンとリッキーの家には連日脅迫の手紙が届き、観客からの野次はすさまじく、チームメイトもロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した者もいた。

(西海岸ですら黒人迫害はきつかったんですね。)

しかしロビンソンは逆境にめげず、常に紳士的に振る舞い、どのような酷いことをされても決して報復をしなかった。この状況の転機は8月末にやってくる。その日の試合で一塁のベースカバーに入ったロビンソンに相手チームの選手がスパイクを立ててスライディングし、ロビンソンに怪我をさせたことでチームが相手チームへの怒りで一丸となり、白人のチームメイトたちがロビンソンをかばった。同時にロビンソンの活躍とその態度に世論も徐々に味方するようになっていった。

(うーん。ロビンスンって、自己を犠牲にして黒人代表っていう大きい視野で考えていたんですね。すごい!)

ロビンソンはこの年に打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残し、チームの優勝にも貢献し、この年より制定された新人王を受賞した。翌年からも活躍を続け、1949年には首位打者と盗塁王を獲得し、MVPに選ばれた。また1949年から六年連続で3割を達成している。

(まるでイチローのような活躍をしたんですね。)

1956年にはジャイアンツへの移籍が持ち上がるが、ロビンソンはドジャースにこだわり、ドジャースにいられないならばと翌年の1月に引退してしまった。その後、1962年には野球殿堂入りを果たす。引退後は実業家として活躍し、また黒人差別撤廃のための政治活動に力を注いだ。また、長男のジャッキー・ロビンソン・ジュニアが麻薬中毒で亡くなったため反麻薬活動にも積極的に参加した。 1972年に交通事故で死去。

(このあたりは、自分を育ててくれたドジャースに感謝して、お金を積む(?)ジャイアンツに移籍しなっかたという心意気がうれしいですね。)

ロビンソンの活躍により、黒人選手の門戸が開かれ、大きくメジャーのレベルを上げることになり、また黄色人種である日本の野茂英雄やイチローを受け入れる下地となっている。現在のメジャーリーグでは白人のみの試合などありえない。また野球だけではなく、ロビンソンの活躍が人種差別へ与えた影響も非常に大きい。  著書に自伝"I Never Had It Made"(邦題・黒人初の大リーガー)がある。

(うん、感動的だ)

1997年4月15日に功績を称えて、ロビンソンの背番号「42」が全球団共通の永久欠番となった。また2004年4月15日からはこの日が「ジャッキー・ロビンソン・デー」とされて、メジャーリーグの記念日となった。

 通算成績  1382試合出場  通算打率.311  本塁打137  打点734

 (立派な成績です!)

 

 

という事がわかり、いたく感動したわけであります。

こんなエピソードを知ってて(多分)皆、「42」を背負っているんだろな。

 

野球界ですら、人種差別がなくなったのがわずか50年前。

 

あの時小学校の先生がこのことを知っていたのかどうかはわからないが、

背番号42がきっかけで、人権についていまさらながら考えさせられたことは、何かの縁かもしれない。

 

 

 

 

 VOL37.

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