vol 37.春一番コンサート(その1)

 

■悲しい時にゃ悲しみなさい 気にすることじゃありません

 

私が音楽、フォークソングに目覚めたきっかけが、1971年の中津川フォークジャンボリーであることは以前述べましたが、唄を通していろいろな価値観・人生観を教えてもらい、私の心に花と実をつけてくれたイベントが、大阪天王寺公園で行われた「春一番」コンサートでした。

 

一旦終了したこのイベントが10年ほど前から復活したのは知っていたのですが、なかなか行けなかった(というか行くのが怖かったというべきか)のですが、今年(2005年)春一番コンサートが始まる3日前に「急に行きたくて行きたくてたまらなくなった」のです。

 

そう思わせたのは、「今年で最後になるかもしれない」という情報だったかも知れないし、4月16日、享年56歳にてこの世を去った高田渡氏の死を受け容れるためだったのかも知れない。

 

もちろん観に行く日は、渡さんと関係の深い加川良さんの出演する5月1日、春一番コンサート初日を選んだ。

 

(写真は「加川良さんと私」 1971年夏 中津川にて )

 

 

 

 

■風太のジントク

 

「天王寺で九つ作って、休んだあと大阪城でひとつやって、ほんでこの服部緑地で十(とぉ)、今年で都合20回目になります。」

 

春一番初日の5月1日、空模様が怪しかったせいもあり午前11時予定を10分ほど早めて開場。

 

会場に入ると「リクオ」のピアノが出迎えてくれた。ポツリとこぼれる雨のせいもあり、満席には程遠い入りだが並んでいた200名ほどの観客が席についた頃を見計らいリクオがステージから降りた。

 

今年でほんとの最後になると噂される春一番が始まった。

そして最初の風太のあいさつが冒頭の言葉だった。

 

1971〜79年(天王寺野音)、1995年(大阪城野音)、1996〜2005年(服部緑地野音)。

私は1972〜76(ひょっとして77かも?)まで毎年参加しました。

1972〜73は、高校生でしたから気の合う友人と二人連れで見に行った。

1974〜76は、音楽仲間が増えた時期でしたから7〜8名のグループで見に行ったように記憶しています。

 

ちょうどこの1974,5,6年がピークじゃなかったですかね。

毎年「えぇっ!!こんなすごい奴がいたんか!!」というミュージシャンが新星のごとく、春一番のステージに現れた時代だった。

 

「こんだけの出演者とスタッフが手弁当で集まるのは、全部、風太のジントクやねぇ」

いつの年か忘れたが一緒に行った友人のヒロがそうつぶやいたことを今でも思い出す。

 

「うん、そやな。」と応えたものの、ジントクが人徳という難しい言葉であるのを知ったのは後日になってからで(笑)、ホントにヒロの言うとおり風太の人徳が無ければこのようなイベントは実現しなかっただろうと今でも思う。

 

「聴きたい唄を聞くためにコンサートに出向く」しか考えていなかった甘茶の私に、イベントを作り上げる社会(人間関係)の尊さというか、大変さを教えてもらった。

 

なるほど、今年も毎日20組くらいの出演者が4日間、延べ100名は超えるミュージシャンが集まるイベントは大変である。

そして3500円のチケットは安い。1974年は2日間通しチケットで前売り800円だったようなので、もっと破格の値段でした。

当時ハイライトが1箱80円でしたので、煙草10箱分で丸2日音楽を聴けたのです。

 

しかも高田渡、加川良、友部正人、ディランU、中山ラビ… そうそうたる人たちの唄を身近にできたのです。

 

風が吹けば砂埃が舞う木の椅子に座っていた天王寺野音から30年。

久しぶりの春一番コンサートは、初めて訪れた服部緑地野音。

 

幸いステージから5mほどの真中の席に座ることができ、あの頃と同じように手を伸ばせば届くところに音楽があった。

そして、ステージの下手には、あの頃と同じように福岡風太が立ち、淡々と話を始めていた。

 

ちがっていることはただひとつ。何十年も晴れ男だった風太だけど今日は雨がポツリポツリと降ってきていることだけだった。

 

(写真は1973年当時の私。天王寺野音での写真が見つからず渋谷の駅前で撮った写真を。みんなこんな風体で聴きに行ってました。)

 

          その2につづく

 

 

 

 VOL38.

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