vol 9.滋賀作詞クラブで学んだこと(その1)
滋賀作詞クラブで学んだって言っても、「作詞について」では無く、作曲についてなのです。
まず、この滋賀作詞クラブなるものについて説明しなければ話が始まらないので、しばらくおつきあいを。
滋賀作詞クラブはその名のごとく滋賀(一部京都の方もおられる)の
詩人達が参集して活動されているクラブです。
「自分達の作った詞を小冊子にして、全国の作曲家に発送し附曲してもらおう」
というのが主な趣旨のようです。
手元にある「逢美路(おおみじ)」の2号(1990/08発行)には代表者である
南栄市氏が次のコメントを記載されている。
(以下、抜粋)
”琵琶湖周航歌”だけが滋賀の歌でなく、新しい近江の歌の誕生をと前号で
細川さん(筆者注)が書いておられましたが 大先輩のお言葉を胸に私たち会員少しでもいい歌を書くべく頑張りたいものです。
(筆者注:細川さんというのは、ちんから峠・あのこはたあれ等、童謡の作詞家として全国的に有名な先生で、この当時顧問をされていました。残念ながら1999年2月ご逝去されました。)
つまり1990年からかれこれ10年間、3ケ月毎に「逢美路(おおみじ)」を発行されており、毎年1回(6月号)で曲公募の特集号を発行されています。
小生が、滋賀作詞クラブを知ったのはヒョンなことがきっかけでした。
1994年春、今の街に引越してきたのですが、たまたま隣の家の奥さんの母上が滋賀作詞クラブに所属されていたのです。
小生が音楽をやっているという話を聞いた隣の奥さんが「実は…」という事で話され、
お愛想のつもりでその母上の詞に曲をつけ応募したのが始まりでした。
滋賀作詞クラブの面々は(失礼ですが)ご年配でして、その詞を読む限り「演歌調」にせざるを得ない。
この1994年に初めて応募した「黒壁・盆梅・古い町」はマイナー調の年配向けの曲にしたのですが、見事落選でした。
当時、小生の状況はTTBのバンド活動休止が決まった頃であり、ヒマと言えばヒマな時期でもあったのです。
この落選がその後、小生の曲づくりに大きなインパクトを与える事になろうとは、この時は知る由もなかったのである。
(「その2」につづく。。。。)